1 座間味島
那覇の西40キロほどのところにある慶良間(けらま)諸島は、米軍が沖縄本島中部西海岸から上陸作戦を行なう場合、沖合に展開する米艦隊の背後に位置する。米軍の圧倒的な物量に対抗すべく、日本陸軍はベニヤ製の小型モーターボートに爆薬を搭載し、搭乗員もろとも敵艦に体当たりする四式肉薄攻撃艇(通称「マルレ」)をこの島々に配置した。だが米軍は、すでにフィリピン沖で日本軍の海上特攻を経験しており、沖縄上陸作戦に先立って慶良間諸島の制圧を行なった。
米軍の攻撃は1945年3月23日の空襲から始まり、徹底した艦砲射撃で集落もろともすべての建物を破壊したのち、26日に座間味(ざまみ)、阿嘉(あか)、慶留間(げるま)、27日に渡嘉敷(とかしき)に戦車とともに上陸した。この攻撃を予期していなかった日本軍は大混乱に陥り、特攻艇の大半を放棄して地上戦を余儀なくされることになる。

高月山(たかつきさん)から座間味村を望む。海は米艦隊で覆われ、空からはグラマンの大群が押し寄せ、住民たちは山のなかを逃げ惑った。

座間味港に建つ「太平洋戦争沖縄戦(米軍)上陸第一歩之地」の碑。終戦まで5カ月におよぶ熾烈な沖縄戦が始まった場所でもある。

米軍上陸前日の3月23日夜、住民たちの集団自決が起こった。写真は村長以下67名が死亡した農業組合の壕近くに建てられた集団自決之地の碑。生存者が1名もいないため集団自決に至った経緯は不明で、壕そのものも米軍によって埋め立てられ消失。後に戦隊長の軍命があったかどうかで争われることになる。座間味島ではこの日、18カ所で177人の住民が自決した。

座間味島での戦死者を慰霊する平和の塔。日本軍は将兵の5割にあたる216名が死亡。住民の戦没者500余命とともに名前が刻まれている。

現在の座間味島は欧米人にも人気のダイビングスポット。写真は阿真(あま)ビーチ。